変な子供だった僕が、人に初めて認められたのはスポーツだった|スポーツアナリストの自己紹介#01

スポーツアナリスト

あまり自分の事を紹介するのは、苦手でありますが…
サイト内に少し綴っている中「あれでは足りない」とブレーンから提言をもらい
極力簡潔明瞭かつ濃い目に自己紹介を綴ります。

続きはこちらから
非エリートからの進化|スポーツアナリストの自己紹介#02 – 競技の問屋

スポーツアナリストをやるとは思っていなかった

結論から述べると、自分が現在のスポーツアナリストをやるとは、1mmもなかったです。
普通に勤めて60歳で定年退職して、ゆっくり余生を過ごすのかなと…

「何か変わった奴だ」

河原清明─昭和41年9月21日大阪市でこの世に生を享けました。
生まれてから暫くは運動も勉強も遊びもできないという人間だったと…
「こいつは大丈夫か?」「何か変わった奴だ」という評だったようです。
確かに幼稚園と小学校までは、先生にシバかれ怒られてばかりで、
褒められた記憶はまったくありませんでした。

“ドンケツ”

友達とは仲良く遊んでいたようですが、いつも何をやっても大阪弁で言うところの
“ドンケツ”でした。つまり1番はおろか、いつも出来上がるのは最後という人間でした。
運動や勉強そして遊びもできない、超底辺にいる人間でした。
ただし両親には「人に迷惑をかけるな!」と命じられた以外は
自由にやらせてもらいました。
しかし…幼稚園・小学校が終わると帰宅してテレビと漫画ばかりでした…

野球との出会い

小学校6年生春の日、父親からサンケイスポーツを渡されました。
「一回受けたらどない?」と誌面内を示されました。
その内容は、『住吉大和川リトルシニアリーグ』のテスト開催でした。
野球は近所の友達と原っぱでの遊び程度であり、もちろん下手くそでした…
「硬球か?痛そうやね?」と僕が言うと
「とにかく一回行って来い!」とめったにモノを言わない父から命じられたので
取りあえず申し込んで当日行きました。
同チームテスト当日、何人いたかは覚えておりませんが
少なくとも僕より野球は上手く、運動能力も高かったことは覚えています。

入団テストに合格

テストの結果は合格でした。合格した理由はわかりませんが…部費要員だったのか?
「入団申込書を書いてもってきて!明日の朝練から参加するように」と
翌日の朝練よりチームの一員として参加しました。

「何こいつ?」「どこの者?」

ユニフォームがなかったので、学校の体操服で行きました(テストもそうでした)
同じ小学校の同級生が数人居たのみで、初めて見る顔が、ほとんどでした。
「何こいつ?」「どこの者?」など好奇な目で見られていたことは確かです。
それでも1日も休まず朝練に参加し、試合にも同行しました。
当然試合など出られる機会はなく、道具運びや球拾いに終始しました。
「やっぱり俺はアカンやろな…」ということを心で呟いておりました。

「河原よ!今日からキャッチャーやれ!」

チームに入団して約1ヶ月経ったある日の朝練。
コーチに突然呼ばれて「河原よ!今日からキャッチャーやれ!」と!!!
「えっ!?」と心の中で言いましたが、とにかくやってみようと。
コーチの言われたのが「バットを振られても絶対に目をつぶるな!絶対に球から逃げるな!」と。
やったことがなかったので、命じられたことをやるのみでした。
あれこれしながら2週間後に「明日先発や」と監督に言われました。

初めての試合当日…

初めての試合当日…エラー連発、三振ばかりで散々であったことは覚えております。
対戦したピッチャーは、後に阪神タイガースで活躍した湯舟敏郎さんと聞きました…
その後、一度も外されることなくチームのレギュラーとして試合に出続けました。

地道に努力しなさい

前述のコーチが何故僕をキャッチャーに指名してくださったのかはわかりませんが、
「お前はキャッチャーに向いている。地道に努力しなさい」と言われました。
記憶を辿ると、誰からも言われることなく、素振り300回、ランニング10kmを
中学3年生まで続けました。

身体を壊してごまかしながら

さらに中学生になった時、ベースボールマガジン社出版の野球専門書やウエイトトレーニング専門書を親に頼んで買ってもらいました。
何かの情報で、「頭脳を使い且つ身体を鍛えることが近代野球だ」と目に入りそのまま何も考えずやろうとしました。
バーベルとダンベルも買ってもらい、専門書の見様見真似でやりました。
野球の専門書を読みあさり知識をつけました。
身体は同世代と比べてごつくなりパワーもありました。
野球への造詣も深まりました。
しかし、所詮は中学生…無理があり、身体を壊してごまかしながら試合に出続けておりました。

徒競走や長距離走での好成績

小学6年生から中学3年生までの間、ずっと学年最下位(男子は150名程度)だった徒競走や長距離走で常に上位5位以内、ほか運動は何をやってもダメだったものが、それなりにできるようになりました。
勉強もボチボチ(嫌いでしたが…)になりました。
同級生はじめとした同じ学校の先輩や後輩、教師らは「どうしようもない奴」のレッテルでの評価が、一変しました。
「これまでの事は何だったのか?」と感じたと同時に、「まぁ他人はこんなもん」と、冷めた目で見ておりました。

僕はやはり変わりもん

僕はやはり変わりもんであったことは確かです。

当時はスポーツITなどなかった時代で、何かを学ぶには先生もしくは熟練者、書籍しかありませんでした。
それらも確実ではなかった時代です。
当時からスポーツITがあったなら、また違った人生を歩んだかもしれません…正解かどうかはわかりませんが、自分で「どうすれば上手くなるか?」を試行錯誤したことは確かです。

周りで専門書を持っていた人間は僕しかいなかった

周りで野球やウエイトトレーニングの専門書を持っていた人間は、僕しかいなかったのです。
決断するまではグズグズしておりましたが、一回決めたらやり続けました。
そしてとことん研究することをやりました。
自分の強みと課題を追求しました。

スポーツアナリストは居なかった

スポーツアナリストという立場の方々も当時は居ませんでした。
プロ野球のスコアラー、サッカーのスカウィングは存在しておりましたが、現在のようにITを駆使したものではなく、手仕事でした。
その当時自分が、現在の立場となることはゼロ志向でした。
振り返ると、専門書を取り寄せ、徹底的に研究していたことは、スポーツアナリストとしての素養があったのかもしれないです。

人に初めて認められた体験

また、「お前はキャッチャーに向いている」と前述のコーチの言葉。
人に初めて認められた体験でした。
その体験は、現在活動する理念と志向の礎となっていることは確かです。
人間観察─ひとり一人の特徴をじっくり見ることの大切さですね。

この後の人生については、後編で綴ります!やっぱり変わっていますよ^^(つづく)

続きはこちらから
非エリートからの進化|スポーツアナリストの自己紹介#02 – 競技の問屋

タイトルとURLをコピーしました